お庭ばなし

本当にあった庭の思い出。

庭と父・蛙をくわえた蛇を見た

※これは筆者の子ども時代の思い出です。

 

「おーい!子ども達こーい!」

 

父がこう叫ぶ時はきょうだい揃って庭に出ます。

父の口調からなにか面白いことがあるぞ、とわかるんです。

 

「うちのは庭じゃありません、雑木林です」

父は庭のことを人にそう紹介していました。

庭つき一軒家といえば響きは良いけど、その庭がなんせ広すぎました。

敷地内に家は2軒。祖父母と私達の家。

その家より庭のほうが数倍広く、祖母が色んな食べ物を植えていました。

柿、梅、柚子、竹の子は家を出るまでお店で買ったことがありませんでした。

 

労働が嫌いな父は、雑草をはらうことも億劫がる人で

母にせっつかれて仕方なく作業着を着て週末庭に出ていました。

 

その父が、時々庭から子ども達を呼ぶのです。

急いで靴を履いて庭に出ると、ここに並んで座れという。

その時はきょうだい4人のうち全員いたのかどうかあいまいですが、

ぞろぞろと父の横にしゃがみ込んだことを覚えています。

 

ほんの数メートル向こうに蛇がいました。

いやにゆっくり、こちらに向かってくる。

びっくりして腰をあげようとすると「大丈夫だ」父は笑って言います。

 

「見ろ。蛙をくわえているぞ」

「えっ?」

よく見ると、蛇の口から蛙の足が漫画みたいに2本飛び出していた。

蛇は蛙に頭からがぶりと食らいついたらしい。

 

一度に飲み込むには蛙が少し大きかったようで、蛙の丸いお腹から下がそのまんま蛇の口から生えていました。

蛙を口にくわえているなら、噛まれないだろう、と私は父の隣に腰をおろしました。

 

自分の身体と同じかそれ以上の幅の蛙をひと飲みに出来ないまま、ゆっくり蛇はこちらに向かってくる。

どうも、縁の下に潜りたいらしい。

 

「縁の下でゆっくり飲み込みたいんだろ」

と父が言うのでなんとなく状況がわかった。

 

せっかくご馳走にありつけたのに、たまたま傍にいた人間が騒ぐので

蛇は蛙を最後まで飲み込んでいられなかった。

暗くて静かな場所を探して移動していたら

大きい人間と小さい人間がぞろぞろ出てきて

蛇の行進を凝視しているのだ。

ますます落ち着かないに違いない。

 

でも蛇が動揺しているようには見えなかった。

蛙を咥えた頭だけを動かさず、器用な動きで庭を横断している。

私は蛇が蛙をごくんと飲み込むところが見れるかもしれない、

と期待と怖さを感じていたが

そんなリクエストに応えてくれるわけもなく蛇は縁の下にもぐっていきました。

私がついさっきまでいた部屋の下に。

 

「あーあ、行っちゃった」と父が残念そうに呟きました。

父がしぶしぶ庭仕事に戻っていきました。

あの時の父は心底楽しそうだったな。

 

庭に蛇がいるのは知っていたけど

人間とは生活スタイルが違う蛇とは滅多に会えない。

生活スタイルの違いというのは、お互い存在しているのに気づけないパラレルワールドに近いと感覚だと思う。

普段はそれぞれの世界で生きていて、交わることなんかほぼないのです。

 

例えば大人になった兄と私は上京し、10年ほど3キロ圏内に住んでいたけど

街で偶然会ったのはたった2回しかない。

近くに住んでいる、とお互いに知っていたのに

会うと妙な感じがした。「あれ?なんでここに存在しているの?」みたいな。

 

10年で2回というのは、庭に住んでいる蛇とばったり会うのと同じくらいの頻度だ。

いやもうちょっと蛇のほうが会えるかもしれない。

生活スタイルが違うということは、どんなに近くに住んでいても日常では滅多に会えないということ。

 

父は林のようなこの庭で、普段は会えないパラレルワールドの住民に出合わせてくれました。

そのことに気が付いたのは大人になってから。

私たちきょうだいにとって当たり前の経験は

どうも特殊らしい、ということに最近気が付いてきました。

 

こないだ母に話したら

「知らなかった!お父さんそんなことしてたの?それ絶対文章にして誰かを楽しませて欲しいわ」というので思い出しながらこうして書いています。

 

確かに、蛇が獲物を丸のみにするのは知識として知っていたけど

それを庭先で見れるなんて貴重な経験だと思う。

父が呼んでくれなかったら一生見る事はなかったかもしれない。

 

当時、縁の下にもぐりこんで遊んでたけど

蛇に出会ったことは一度もありません。